「自分の中で」-4
2009年2月1日UP
船橋の料理人としての経験の中で、短期間に最も多くを教えてくれたシェフはジャック•マキシマン氏(M.O.F.)です。 それは今迄で最も濃密な6週間でした。 マキシマン氏の下で働いていた時の船橋は超特待生、何故なら、氏の名前のレストランを神戸に作る為に、料理長のテストを兼ねて料理を作っていたからです。 ここでは物凄い数の素晴しい体験やエピソードも有り、船橋の料理感の最も大きな基盤と成りました。
1990年冬、中澤chefから「船橋、神戸に行け」と言われたのが事の始まりです。
ジャック・マキシマンと言えば1985年頃には「竃の前のボナパルト」と称され、ニースにあるネグレスコ・ホテルのレストラン“シャンテクレール”の名を世界に広めたグランchefです。 代表的な料理は「サーモン・オー・グロセル」「バピヨン・ダンショワ」「花付きズッキーニのトリュフ・バターソース」等で、約20年前の料理書やガイドブックには常に話題を提供していました。 後にホテルから離れて、ニース市内の旧劇場を改装して作ったレストラン“テアトル”は、料理が全て出終わると舞台の緞帳が上がり、客席から調理場が見える仕掛に成っていて話題と成っていました。 そんなマキシマン氏が、「日本で店をやるのなら料理長は彼しかいない」と逆指名して来たのが中澤chefです。 ですが中澤chefは丁度、タイミング的に独立を考えていました。 かといってボナパルトの指名を無下に断る事も出来ず(島流しに成りかねません)苦慮の末に???出て来たのが、当時、帰国してプー(ブーでは有りません)していた船橋擁立です。 白羽の矢が当たりました(始めは「俺は生け贄じゃない」なんて一寸だけ反発しましたが、マキシマン氏の下の行ってみたら、中澤chefがガブリエルに思えました)。 当時プーしてる割には突っ張ってた船橋は、中澤chefの推薦が有れば決まる物を、「一緒に働いた事の無い人に対して、推薦だけだと立場が弱く成るからテストして決めてもらう」と言ってしまった事が、船橋の料理人としての分水嶺と成りました。
与えられた時間は5週間+1週間(予備)。 4週間内にOKが出なければ話しは打ち切り、使った費用の半分は自己負担。 いきなり真剣でした。 そして「天は我に味方せり」。 2週間経った夜の営業が終わった時、「Toshio、日本でシェフをやれ」のOK。 ココでホッとしてしまった船橋に、次の日から予想外のことが次々に起こり、流石に休憩時間にビールすら飲めない(カフェで注文しても、口を付けただけで終わってしまう)状態に迄,追い込まれました。 中でも一番きつかったのは、神戸のレストランで誰がイニシアチブを握るかと言う事で、自分とジャン・シャール(肩書きはフランス人シェフ、ジャック・シボワchefの秘蔵っ子)とパスカル(シェフ・パテシエ)との覇権争い。 技術だけを競うのではなく、相手を納得させて使って行かなければ成らないのが条件なので、かなりグッと来ました。 言葉の問題が大きく、頭を超人ハルクに絞られてる様な日々でした。 その上、テクニック、考え方、感性までも「プティ・マキシマンに成れ」と、Chefとのマンツーマン(と言うよりまさしくtête à tête)の日々。 何度、脳みそがプチュッと音がしたか解りません。
そして「運命のサラダ」。 神戸での「日本人シェフ」が内定し、他二人との競い合いが始まって10日経った夜のサーヴィス。 予約は3組で超暇なはずなのに、スタッフ全員が浮き足立っている。 異様な空気の中、いきなりシェフルームに呼ばれ、Chefから「ヤギの生ハムを使って、30分後にJ・マキシマンの感性でサラダを二人前作れ」の指示。 兎に角、その時の船橋が感じたプレッシャーの大きさだけは、15年以上経った今でも夢に見る事が有ります。 そして営業も終わり掃除も終わった頃、キッチンからダイニングに続く階段を、赤ちゃんを抱いた美女がおりてきました。 その後ろを初老の美男子が。 映画の一場面の様で、流石〜!南仏・サンポール・ド・ヴァンスと見とれていました。 Chefが出迎えた時「ジャック、今年も君の一皿で私の夏のバカンスを終わらせる事が出来る。ありがとう」のお礼の言葉。 瞬間、chefが船橋を見てウインクした時は、鳥肌が立つほど感動的でした。 その初老の男性とは、Chefの親友イヴ・モンタン氏でした。 次の日、「イヴは俺の料理を理解している、神戸はToshioがやれ」と三人を集めて最終決定が出ました。
この後の約2週間は、J・マキシマンの紹介と言う事で、3人のグランシェフと話しをする機会を頂けたりと、まさしく超特待生の日々でした。
ここでの経験は、今まで皿の上の料理のテクニック、ルーツ等ばかり追っていた船橋にとって、自分の手から離して思う料理を完成させる、食材提供者とのコミュニケーションの取り方等、数々の料理長としてのやるべき事を学ぶ事が出来ました。 料理職人としてしか考えていなかった今までから、Cuisinier(キュイジニエー)に。
「自分の中で」1〜4に書いたこれらの事がいろいろ組み合わさって、船橋の料理感が出来ていました。 ですが長い間、まともに料理を話し合う環境も作れず、頭の上の蠅を追う事に終始してしまっている内に、いつしか迷いが出てしまいました。 今回、半強制的な完全休養(ドクターストップとも言う)で、ここ十数年なかった時間を与えられ、自分の料理感を見直す事が出来ました。
船橋俊夫、フランスで学んだフランス料理、作ります。